「復刻版」のスヽメ

吉野剛弘

「日本教育史往来」の復刻板が刊行された。およそ学会や研究会を名乗る組織で、ニューズレターを出すこと自体はごく普通のことだと思うが(最近はMLなどの手段もあるが)、それをまとめて刊行するという会はさほど多くはあるまい。まずは、そのようなものが刊行されたことを嬉しく思う。

私自身が「往来」の存在を知ったのは、研究会入会よりも前のことである。修士課程の大学院生だった頃、先輩の院生(藤田薫会員)が大学図書館に購読を求めていた。「往来」には参照すべき論考が多く収められているというような理由だったと記憶している。その結果、晴れて「往来」は図書館にて購読され、会員でなかった私もそれを目にするようになった。

昨今の大学の厳しい財政事情に鑑みれば、新たな逐次刊行物の購読そのものを厭うことすらある。事実、大学院生の切なる要望のもとに購読を始めたわが母校の図書館も、167号を最後に購読を止めたようで、最近図書館に赴いたところ、購入した分が製本して置かれていた。購入を止めた理由は分からないが、致し方のないことである。

しかし、まさにこれから教育史研究を志そうと考える未来の会員にとって、これほど不幸なことはあるまい。「往来」にはサマーセミナーに関する記事や、時折組まれる特集(たとえば、151号から159号の「メディアと教育」)をはじめとして、研究に資する情報が多く詰まっている。これを未来の会員に示さぬ手はない。殊に教育史を専攻する学生を擁する大学におられる会員は、来るべき未来に備えてぜひこの機会に手許に置かれることを強くお勧めしたい。

この復刻版は、各会員にとっても大変有意義なものである。まずもって、会員歴が比較的短い会員にとって、入会前の「往来」を一挙に手にする絶好のチャンスである。この復刻版には、101号から200号までの総目次がある。創設25周年を記念した特別号(162号と163号の間に収録されている)には1号からの総目次が掲載されているので、この復刻版を手にすると、200号分の総目次が手に入る。さらに、大変丁寧なことに人名索引が付されている。思わず私も自分の名を探したが、新入会員として名を連ねている箇所までもが収録対象である。索引の作成者の労に感謝したい。

そんな人名索引を使いつつ、先行研究として引用する研究者を探し、その会員の記事を見ていくのも大変有意義である。「往来」には各会員の研究内容に関わる寄稿がみられるが、これらは言うなれば論文の一歩手前の内容である。一定の完成度をもって執筆される論文にいたるまでの何かがそこには含まれている。それはまさしく論文になる一歩前の何かかもしれないし、そこにいたるまでの逡巡かもしれない。あるいは読者自身が知っている先行研究の内容とは違う何かかもしれない。違う何かがあるとしたら、読者自身が何かで読んだその研究は、そのような広がりの中から生み出されているということである。論文が生成されるプロセスが目に見える形で示されることはそれほど多くはない。これを有意義と言わずして何というべきであろうか。

「往来」の白眉は、サマーセミナーに関する記事である。ここ最近は、全体の3分の1くらいはサマーセミナーに関する記事で占められているだろうか。サマーセミナーの前には発表者からその内容の予告があり、事後には発表者の総括まであるという充実ぶりである。そのサマーセミナーに出ていなくても、出ていたような気にさせられるほどである(もちろん参加した方がよい)。サマーセミナーの成果を受けて、著書や論文に結実した例を筆者は知っている。先述した論文の一歩手前そのものである。そこから学ぶことは多い。

過去の「往来」を振り返る意義があるのは、若き新しい会員ばかりではない。筆者も過去に文章を寄せたことがある。改めて読むに墨塗りを施したくなる思いがする一方で、考えさせられることもあった。ちょうど入試問題講評をもとに論文を書いていた時期だったのだが、入試問題講評に表れるホンネに向き合うべきなのだという。何とも悪趣味な論考だと妙に感心する一方で、はたしてその後この問題にきちんと向き合ってきたかと再考させられてしまった(再考の価値がない可能性もあるが)。その一方で、とりとめもない逡巡をするくらいならさっさと論文を書くべきだともいう。20代の自分の若さにこれまた感心しつつ、9年前の自分に背中を押された次第である。日々の業務に忙殺される中で、忘れてしまうことがあることも、哀しいかな事実である。「往来」の再読は、過去の置き土産を引き取りに行く絶好の機会である。幾許かの気恥ずかしさという代償が必要だが。

ついでに言えば、そのような振り返りの価値があるのだから、会員諸賢は大いに寄稿すべきである。今後の寄稿は、201号から300号の復刻版が出た暁には収録されるはずである。

「往来」の復刻版は、それ自体に史料的価値がある。上述のサマーセミナーの記録にとどまらない。たとえば、133号から150号にかけて掲載されたリレーエッセイ「〈現場〉としての大学」は当時の大学教育の実態を伝えることにもなる。世話人の方々の挨拶も研究会の歴史を刻む貴重なものである。雑誌と異なり、ニューズレターは保存されることが多くない。それが冊子としてまとまっているのだから、100年後には大変貴重な史料となるはずである。我々はその史料を引き継がねばならない。まあそんなものは1冊残っていればいいのでしょう、どうせ国立国会図書館には納本するのでしょうなどと考えてはいけない。想像もしようのない事態により貴重な史料が一瞬にして消えてしまうということを、私たちは三年近く前に経験したはずである。一点物の史料ならいざ知らず、最初の段階で複製されている貴重な史料をさまざまな場所に分散して保存するということは、後世に引き継ぐ有力な方法である。リスクマネージメントである。

あれやこれやと書き連ねたが、今回の復刻版は各会員の手許にぜひとも備え置きたい1冊である。もちろん備え置いた以上、「積ん読」ではもったいない。自戒の念も込めて。

『日本教育史往来』№207(2013年12月31日)より

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